福生(アイヌ語で麻を意味するフサが訛ったという)の夜。駅前の風景からははかりしれない闇? が、そのすぐ向こうにはある。 福生に住んでいて、今でも遠方の友人から「横田基地と立川基地の場所の違いがよくわからないんだけど」と聞かれたりする。立川基地はかつて米軍が駐留していたが、今はすでに返還されて再開発がなされている。名前の通り、最寄りの駅はJR中央線の立川駅である。横田基地はその立川駅を始発駅とするJR青梅線(終点は奥多摩駅)の六つ目の牛浜駅と七つ目の福生駅が、その最寄りの駅である。
さて福生で通称「赤線」と呼ばれているのは、福生駅の東口駅前ロータリーからわずか一〇〇歩ほどがその入り口となる、東西一キロメートル南北一キロメートルにひろがる歓楽街である。赤線の歴史から少し話を進めていこう。




赤線とは、戦前から一九五六年(昭和三一年)の売春防止法施行まであった公営の“売春”地帯の総称で、その地図上の位置を赤い線で囲ったところから名づけられた。その呼び名が、いまも福生では生き残り日常語になっているのだ。赤線という名称は地域に不適当、なくせという市議会議員の先生もいるのだが……。
なぜ、赤線は形成されたのか?
一九四五年八月末、連合国軍が進駐してくると、日本政府は基地の近くに日本人娼婦たちを集め、米国軍人の相手をさせる特殊な慰安(売春のこと。売春婦のことをかつて慰安婦といった)施設を設置した。この場所が赤線である。
今のような歓楽街を形成する以前の赤線地域は、桑畑と麦畑が一面に広がり、里山の風情がそのまま残っていた。その一角に小料理屋の小松屋がポツンとあり、ほかにはダンボール箱製造会社とタバコ屋があるだけだったという。そんな田園地帯に突如、赤線はつくられた。日本の“乙女”がアメリカの兵隊たちに強姦されないようにと、急ピッチで施設はつくられたのだという。
赤線はもともと都市部を中心にあったものだが、福生の場合、日本側(地元住民)が強姦防止を理由に、米兵に配慮? して、彼らの性のはけ口として建設した。だが、施設を完成させたものの、当のアメリカを主とした連合国軍は公娼制度、すなわち公営による売春経営は認めるわけにはいかないという表向きの理由から、開設後すぐにこれを廃止するよう命令を出したのである。実際には兵隊たちに性病もちが多いため、衛生上問題があったためだ。背景にはアメリカの女性団体からの圧力もあったらしい。
男女の欲望は、廃止されておさまるわけはない。ごく自然にアメリカ人相手の“夜の女”が生まれ、それを商売とする女性たちが全国から福生に押し寄せてきた。
一九五一年、五二年当時、娼婦の数は約七〇〇人という記録がある。売春をする女性は、不特定多数の男を相手にする“パンパン”と、特定の米兵の相手となる“オンリー”に分けられた。当時、福生町の世帯数は約三〇〇〇戸、人口一万数千人だったから、そこに約七〇〇人もの娼婦がいたというのは、人口比に占める割合を考えると、けっこうスゴイ数字ではある。
第3章で述べる「ハウス」の建設とともに、売春も戦後の「福生発展」の原動力になっていったのだ。経済活動のすべてではないにしても、かなりのところ、娼婦に負うところが大きかったはずだ。しかし、青少年育成の観点から見れば、こうした売春地帯はまことに好ましくないということだから、サンフランシスコ講和条約発効(一九五二年四月)後の同年五月に福生地区警察は、東京都警察隊長と町長、学校長、PTA会長を一堂に集めて会議をもった。その席上、今の赤線と呼ばれる一帯に置屋を集め、この地域以外での営業を徹底的に取り締まることに決めた。赤線の誕生である。




赤線街は、この地域(JR青梅線の立川から終点の奥多摩、さらにその奥の山梨県小菅村や丹波山村辺りまで)ではつとに知られた存在で、この地域で暮らす人々で福生の赤線の名を知らない者はいないだろう。地元企業で働く人(とくに男性)なら、一度は足を踏み入れたことがある歓楽街なのだ。
クラブやディスコ、レストラン、バーなど約一五〇店がいくつかの高層マンションの下に、膝を突き合わせるように店を構えている。ところが昼間の赤線はただのゴースト・タウンだ。“ガイジンさん”だか、日本人だかの反吐がそのままに汚く残り、その辺りの路地を野良猫がゆったり歩いている。陽炎が似合うような街である。
テレビ『傷だらけの天使』のリニューアル映画(豊川悦司主演)が、この街で撮影されたのもきっと、この空間のもつ、不思議な「いかがわしさ」によるだろう。壁面にイラストレーターの湯村輝彦の描いたと思わせるようなエスニックな絵があったり、沖縄の歓楽街に見られるようなアルファベットの横文字看板があったり。そんな少々エキセントリックな情景が、映画人の目に留まったのだろう。 昼間この赤線を通るのは、店に配達するおしぼり屋の車と夕方の氷屋と、あとは抜け道として走る車だけだ。活気ゼロだ。
ところが、夜の七時過ぎともなれば、ネオンが灯り、「赤線舞台」のはじまりはじまり。夜の福生の扉が開く。バブルの頃や、風営法施行前夜など、最盛期は客引きが道路いっぱいに立ち、通り抜けるのが大変だった。
この街は、GHQの占領直後から朝鮮戦争、ベトナム戦争と福生のさまざまな時代を生きてきた。自称「マッカーサーと寝た」女が、今も化石のように水商売していると聞いたこともある。バブルの頃は、にわか成金が闊歩し、銀座や赤坂にも引けを取らぬ金を取る高級店もあった。さすがにそうした高級クラブはほとんどなくなったが、福生を知らないヨソから来た若者に対するボッタクリの被害は相変わらずあとを絶たない。気をつけようね。




赤線は、GHQ(連合軍総司令部)統制下の戦後に進駐軍(サンフランシスコ講和条約締結まで日本は米国を中心とした連合国軍に占領されていた。進駐軍はその先兵となった軍隊)がはばを効かせた時代には、白人以外は立ち入り禁止だった。いわゆる“オフリミット”という標識が立っていた時代。当時、日本人はカネがなければ、ここでは飲み食いできなかった。
青梅市の何代も続く織物工場のいわゆる旦那衆が、なつかしそうにいっていた。「初めて、足を踏み入れた時は感激した。ガイジンばかりの店の中に日本人の自分がただひとりで飲んでいる。特権意識というか、うれしかった。まだ、ふつうの人がなかなかバーで飲めない時代だったしな」。
黒人が赤線街を闊歩できるようになったのは、朝鮮戦争以後のことという。やがて、ベトナム戦争を経て、黒人が客筋となるディスコが隆盛をきわめていった。ベトナム戦争の頃、福生生まれの私たちに「第5ゲート前に黒人のリンチ体があったぜ、ズタ袋みたいにボロボロだった」などと、まことしやかに話が伝わった時代だった。その後、黒人の間で男性のことをブラザー、女性のことをシスターと店の中で呼び合うようなディスコ・ブーム。黒人兵にダッコチャン人形(死語! 差別語?)のようにまとわりつく女性の姿が増えていった。
開発途上の多摩西部の町が工場や住宅、マンションで開発ラッシュに……。建設会社を中心に接待でカネを使い、バブルの時代は札びらが飛んだ。当時の赤線街は深夜になっても車がすれ違うことができないくらい、日本人が押し寄せ、湯水のようにカネを使った。これが天井知らずに赤線の店の料金を押し上げていった。円高も追い打ちをかけ、かつての白人や黒人は姿を減らしていったのだった。




そんな、歓楽街の顔とは別に、この地域には昔からアメリカ文化とアジア文化がないまぜになった上に、コトバや音楽や若者文化がさらにゴチャマゼの面白い店がいくつもあった。
たとえば、赤線の十字路脇のビルの二階にあったクラブ「49(フォーティ・ナイン)」。広い木造づくりの倉庫のような店。横田基地の将兵など白人が多い店で、定期的にロックのライブ・コンサートが開かれ、奥につくったステージの上はミュージシャン志望の若者のあこがれの的だった。「よど号」ハイジャックやリンチ事件を起こした赤軍派と親交があるといわれたアヴァンギャルドなトランペッター沖至のコンサートは、公安をはじめとする警察関係の客の方が多かったというようなウソのような本当の話もある。
この「49」は、ミエというシックで小柄な女性が切り盛りしていた。乾き物しかないから、客はまとまったものがほしい時、近くの食堂に店屋物を頼んで、それをツマミに飲んでいた。外国人と日本人、アジア人が入り交じって五目焼きそばなどを食べる姿は、これぞ国際交流という感じだった。その頃は、ほかの街ではなかなか見られない光景だった。
カウンターの壁には兵隊たちの習慣で、メッセージを書き込んだ一ドル札がびっしりと貼られていた。「ホワイト・スネイク」「ZZトップ」といったヘビー・メタル系のアメリカのバンドの曲が、ボリュームいっぱいで店内をつつんでいた。二〇年以上続いたこの店は一九九四年に、立ち退きのために閉店した。




赤線街のはずれにあった「クラブ順」のように黒人主流の店は、ブラザーと呼ぶ黒人を目当てにやって来る女たちと、その女たち目当てに来る白人や日本人の男たちで毎晩ごった返していた。文学界の“つっ張りネエチャン”? 山田詠美が通った店だ。
「49」も「クラブ順」も今はないが、若者しか生み出せないエネルギーが、七〇年代前半から八〇年代の後半までこの辺りに渦巻いていた。そんな中で伝説となった店が黒人の経営するソウル・ミュージックの店「BP」だった。ちなみにBPはブラザー・ピープルの略。この店は、拝島駅にある教習所近くや赤線街へと転々と店を移動しながら、最後は牛浜駅前で営業していた。客は黒人と日本人。私は牛浜時代の店しか知らないけれど、狭い店の中に入ると黒い丸太棒のような黒人とぶつかりながら踊っていた。白い歯が不気味にライトに反射した。風俗的にみれば、福生が最も熱を帯びていた時代だった。
特徴的なこれらの店以外にも、外人バーという一杯売りの前金制の店も人気だった。その中のひとつ「JAZZ&ROCK」は、街のはずれにあり、三〇平方メートル足らずの店だったのに賑わっていた。アメリカ人のマスターがカウンターにいて日本人の客に愛想がいい。カウンターとホールにテーブルがふたつ、椅子一〇脚もない小さな店で、酒しか置いてなかった。尾崎豊が死んだ晩には、一晩中彼のビデオを流しながら、その傍らで米兵たちは日本人の女と戯れている、そんな店だった。
人気の店の多くは閉店したが、二〇年以上になるスナック「由美」などは今でも営業をつづけている。




浮き沈みの多い赤線街の店の中で、ライブハウス「チキン・シャック」は異色で目立った存在だ。
はじめ米兵相手のスナックとして出発、その後、ライブをやるようになった。七〇年代後半から八〇年代前半が最盛期で、子どもバンド、南正人、上田正樹や東京ロッカーズなど有名バンドが数多く出演した。二階にちゃんと楽屋があり、いい演奏をしたバンドには楽屋に上がってしまった後まで、ファンから歓声が飛んだ。
若いバンドを育てていこうと、いまでもアマチュアのオーディションを毎月行っている。早い時期にホーム・ページを開設し、自主レーベルをもつ福生の音楽情報発信基地となっている。現在、二人目のオーナーである貞松久美子さんのもとで活動はさらに活発化している。
毎年秋には、基地の前国道16号線沿い第5ゲート前の修理工場、牛浜ガレージで“ガレージ・ライブ”を開く。トラックをステージにして基地の方に向けて演奏するコンサートで、開催中は16号線を走るトラックの運転手が「なにをやっているんだ!」とばかりにトラックから身を乗り出して、ライブを見やってしまうらしい。
「バンドの子たちは、いつも薄暗い店内で演奏をしている。年に一回ぐらい、青空の下で演奏をさせてやりたい」と思ったのが開催の動機という。基地前ガレージという、福生でなければできない企画を実現させたのは、「どうしても、この場所でコンサートをやりたい」という貞松さんの情熱だった。
牛浜ガレージの久保社長さんに頼み込み、OKをもらった。
「国道の裏が住宅地でしょ。普通だったら苦情の嵐ですよ。だけど、今までクレームは一回だけ。それがうれしい。醍醐味は横田基地の真ん前でコンサートをやることかな」と貞松さんは話す。「チキン・シャック」は、今も活発なライブ活動をつづけていて平日や週末を問わず、若手バンドのライブが行われている。
音楽で生きようとする人は、ぜひオーディションに来てほしい。




バブル景気がはじけたあと、冬の時代がこの街にもやってきた。
こんなエピソードがある。仲間のやっている店だから売り上げに貢献してやろうと、飲食店仲間がめずらしくその店に酒を飲みに行ったら、料金をかなりうわまわる金額を請求されたという。そんなせちがらい話を聞くようになった頃、「明日のことなんか知らねえよ」と街はいっているように見えた。カネのない若者が安く飲むことができる店が減って、ピンク・キャバレーがのしてきた。街は次第に殺伐とした雰囲気になっていった。
赤線は、アメーバーのように多国籍人間を呼び寄せては消えて、また「はびこる」街だ。そしてこの街は、店の代替わりを繰り返し生きつづけ、周辺地域には、ブティックやレストラン・バー、ビリヤードなどの新たな店が出店し、戦後第三期の盛り上がりを見せているのである。




福生にやってきて、とくに赤線の飲食店街で聞く言葉に“外人バー”という言葉がある。これは外国人が経営しているバーではない。外国人がよく来るバーのことではあるが、料金システムでいうと前金制の店のことである。
アメリカ人相手の店ではビールでもコーラでも、彼らはそのつど前金で払う。その流儀を踏襲したのがこの外人バーである。最近は都心でもそんなバーは増えているようだけど。
前述の「49」は、福生駅東口の通りから多摩川保健所方面の産業道路へ向かう途中の通称“赤線十字路”の近くにあり、一時は福生で最もはやった外人バーだった。八〇年代、閉店までハード・ロックがギンギンにかかり異様な熱気にあふれていた。木造二階の中には長いカウンター。開店間際、誰もいないカウンターでひとりビールを頼むと、なぜかいつも流し目のぶっきらぼうなママのミエさんが黙ってキリンビールを差し出す。しばらくすると毎晩、白人にも、日本人にももてそうのないやや頬の赤い田舎者風の兵隊が、判で押したようにやってきてビール一、二本をちびちびと飲んでいたっけ。今の外人バーは九〇パーセントが日本人で、どこでもわいわいいいながら楽しい酒を飲んでいる。
カウンターに座る。注文したものが出てくる。ドリンク類と引き換えに金を払う。もちろん店からはお釣りが少ない方が喜ばれるから、常連はあらかじめ小銭を用意して店に行く。いきなり万札は嫌われる。前金に慣れない人は飲み方がぎこちなく、この街では「まだ新参ものだな」という視線を浴びる。外人バーではスマートに飲もうよ。そうそう、つまり注文してドリンクがくる、お金を払い、クッと飲んで、去る? そんな、カウボーイのマネはできなくても金払いはあくまできれいに、そう、かっこよく飲んでみようよ。 赤線の中ではライブハウスでもこの前金制を取り入れているところが多い。たとえば「チキン・シャック」も、そうだ。外人バー以外ではボラれることが多いから、赤線で飲む時は注意しよう。




赤線の外人バーは「由美」など日本人経営の店が多い。「由美」は三〇年以上、営業を続けている福生でも老舗の外人バーだ。この店のメニューの目玉はBLTだ。これはベーコン、レタス、トマトのサンドイッチだ。米兵、将校の間では横田に行くなら「由美」のBLTを食べてきな、といわれるほど知られている。この店のオーナーは福生社交飲食業事業組合の副組合長も務めていて、明朗会計で安心な店。ほかに人気の外人バーとして、「FOXY」「サルサ」「JEANS」「チャオプラヤ」「トップギャラン」「ナンサンド」「エディーズ」などがある。
ところで、かつて赤線の東側はずれに「レッド・バード」という店があった。エスニック料理が特徴で、深夜にはカップルの多い店だった。レッド・バードは以前はシスターバーといった。その頃はブラック・ミュージックが主体、店の誕生は一九六〇年代にまで逆上る。戦争時はこの店で、兵隊たちが戦のあいだ身体を休めた。
その後、オーナーが変わり、「際コーポレーション」(第2章「福生からの熱風」参照)の経営になった。日本人が多いが休日前のアメリカ人もかなり来た。レッド・バードの深夜は横田のカップルがよく来ていたから米国語のヒアリングに最適だった。時々、コンサートもやっていた。
アメリカ人だけが客の本物の外人バーも福生にはある。しかし、彼らの礼儀を知らないと店の中に入ることはできない。まるでフリーメーソンような世界があるのだ。国道16号線前第2ゲート、コインランドリー会社の「たま開発」近くに「VFW」というバーがあるが、これは退役軍人の外人バーである。以前、日本人は会員の紹介がなくては飲むことができなかったが、最近は日本人も入店OKのようだ。




その赤線街にかつてアルコールを求め、飲み屋を渡り歩く、ブコウスキー原作の映画『バー・フライ』の主人公のような“聖なる酔っぱらい”がいた。
白人の退役軍人で、いつも髪は櫛を入れたオールバックのハンサムな男で、流し目で来る客を見る。ジョークがうまく、なぜかラップは大嫌い、黒人も? 嫌い。そのくせ最後はその嫌いな黒人の胸の中で死んでいった。
その男の名はバーブ・チェスター・ジュニア。どうしてもここで彼のことを書いておきたいのだ。
通称チェットさんが肺ガンで死んだのは、一九九八年六月一五日のこと。六二歳だった。彼はベトナム戦争でレスキュー隊に所属した。三沢から横田基地へ異動し、退役後は福生で暮らし、保険業をしていた。離婚歴一回、二人の娘がいる。福生について語るとチェットさんは「変なガイジンがいて、いい日本人がいる街」といった。
愛すべき、変なガイジンはチェットさん自身のことだった。昼間から酒を飲む本物のアル中。そして落ちないと知っていて、ちょっと好みの女性が視界にいると、一〇〇回でもくどくスケベなオヤジ。
「本当に日本が好きだったんだ」と、彼の友人で一緒に仕事をしたこともある、「クラブ秀子」の小林智さんが回想する。小林さんの経営する店にもチェットさんは毎晩のように来ていた。まわりから見たらチェットさんは、まるでボクサー出身で、後年コメディアンとなった俳優タコ八郎だ。タコ八郎は新宿ゴールデン街でぐでんぐでんになるまで酒を飲み、正体不明のまま紫色のベレー帽をよくかぶっていた元代議士の長谷百合子が経営する「飛翔」なんかでぶったおれていたっけ。
彼が出演したテレビドラマのワンシーンのように、よく電柱などにぶつかりケガをしていた。チェットさんも酔っぱらって、自転車に乗って帰り、いろんなものにぶつかり周囲をハラハラさせたものだ。アメリカ退役軍人の集まる多摩川保健所前の店「VFW」(今は国道16号線前に移った)に、昼間からまるで仕事のように通い、スコッチの牛乳割りを飲んでいた。今でもチェットの指定席が店にはある。死ぬ前日の夜、彼は行きつけの赤線街の多国籍の客が入り乱れるバーに飲みに行った。死の前夜のことをこのバーの経営者が回想した。ガンでやつれて小柄なチェットさんは、その時さらに小さく「チェットさんの背中がつぶれそうに見えたよ」と。
本国にはいくつかの不動産もあったという。家賃収入で老後は生きていけたというのに、最後まで日本にこだわっていた。「どうせ、死ぬなら日本で死にたい」。
晩年のチェットさんの口癖だった。それほど福生の街に愛着をもっていた。その年の五月に手術、片肺を切っていた。容体が急変し、第2ゲートを通り抜け病院へ行く途中、チェットさんは友達のパークさんの胸の中で息を引き取った。パークさんはいった。
「多分、彼は大好きな日本で死ねて幸せだったと思う」。“チェットの席”は、今でも赤線街のいたる店にあって、命日の六月ともなれば多くの人が彼を思い出している、ことだろう。




赤線内唯一の十字路を羽村方面に数十メートル入った路地裏に、かつてボクシング・ジム「岡橋ボクシング・ジム」があった。一階がジムで二階が飲食店という建物の構成で、原色のペンキを塗ったジムのインテリアの奇抜さと、飲食店と併設という、その意外性は道行く人の目を引いた。よく酔った客が、外から練習風景をのぞいたりしていた。
ジムの会長である岡橋勲央さんは、福岡県小倉市の出身。一九七三年埼玉県県民大会ライトフライ級一位、一九七四年県民体育大会フライ級第一位とアマチュア・ボクシング界で活躍した。やがてプロの道を歩み、日東ジムからその後は角海老ジムに所属した。
日本タイトルマッチで挑戦者としてスパイダー根本に負けてから引退。その七年後、一九九〇年に岡橋ジムを創設した。岡橋さんが福生に来たのは、妻の実家が福生にあったという理由からだった。ジムと一緒の店は、不景気で二店のうち一店を閉め、数年前に福生市内志茂にある妻の実家を改築して現在のジムにした。一七坪の広さのジムに、夕方ともなると練習生がつぎつぎと入ってくる。小学校四年生から五〇歳の会社員まで。
練習生は、ジムに来ると軽快な音楽の中で、それぞれに練習メニューをこなす。練習は柔軟体操からはじめてジャンプロープ、シャドーボクシング、サンドバッグ、パンチングボール、ジャンプロープ、タイヤ飛び、柔軟体操が一コース。ひとりひとりに必ずアドバイスを行う。そして必ず一回は会長のミットを打たせる。
ベニアの壁には岡橋会長の自筆で『男なら泣き言は言うな』が掲げられている。彼らがボクシングをする理由もさまざまだ。「運動不足解消」「ストレス発散」「強くなりたい」。「強くなりたい」は学生たちのジムに通う動機の一位になっている。最近のいじめに対する防衛もあるのだという。
「うちはプロ養成ではない。あくまで、アマチュアの人がボクシングに慣れ親しむ場所としたい」。一方いまでも経営する赤線の店について、「バブルの頃はよかったが、今は金曜日や土曜日でも閑散としている」と話す。そのスナック「パラダイス・アレー」 (「裏通りの楽園」という意味)は岡橋さんが、一七年間経営している。岡橋さんはジムで練習生に教えた後、一〇時三〇分ぐらいから店に行くのだ。そんな毎日の繰り返し。
二足のワラジはきびしいのでは聞くと、「確かに大変だね」という。しかし、赤線や水商売のことを聞いても「私は興味ない」とあっさりいう。赤線から現在の場所にジムを移したのは、不景気もあったが、「赤線では少年たちに環境が悪いから」との理由もあるという。今も岡橋会長のジムには、いじめられっ子やストレス発散の会社員が通いつづけている。